書肆ミスカ コラム


 


 

『ミッテランの帽子』

久しぶりに、静岡市の一箱古本市に参加しました。天気だけでなく、お客様や他の参加者、スタッフの皆さまにも恵まれた、なんとも贅沢な一日でした。その時のエピソードを一つ。
 アントワーヌ・ローラン著『ミッテランの帽子』をご存じでしょうか。私は同著者の『赤いモレスキンの女』が好きで、読後に続けて購入したのです。どちらも、「帽子」や「モレスキンの手帳」といった小道具が、狂言回しとなって登場人物達の人生を物語ってゆくストーリー仕立てです。特に前者は、「ミッテランの帽子」が次から次へと人手に渡るオムニバス形式の小説になっています。今回、一箱にこの『ミッテランの帽子』を忍ばせてゆきました。
 細身で瀟洒な装丁の本です。あるお客様が、興味深げに手にとって吟味してから、そっと箱に戻されました。「検討します」という言葉をどう受け取ったらよいのか、「自分なら『社交辞令』で使うかな」と思い、暫くして、次に手にとってくれたお客様に迷わずお買い上げいただきました。ところがその直後、最初のお客様が戻られて本が無くなっているのを見て「(足が)早い」と絶句。不覚を取った次第です。
 最初のお客様には申し訳なかったのですが、後から思うと、あたかもこの小説さながらな展開で、面白いようにも感じました。実は、お買い上げになったのは出店していた古本屋さんでもあったのです。また誰かの手にこの本が渡ってゆくこともあるでしょう。『ミッテランの帽子』と伴に、自分の思いが物語のように伝わってゆくことを知ったら、作者のアントワーヌ・ローランも、さぞ喜ぶことでしょう。
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『青い壺』

一箱古本市でのエピソードを書いて、何か気になって思い出したのは読み止しにしていた有吉佐和子の『青い壺』でした。先月、千葉県は佐倉市に小旅行をした際、帰りに立ち寄った幕張の古書店で手に入れたものです。
 この小説でも青磁の壺が狂言回しとなり、オムニバス形式の物語が進行します。とは言いえ共通点はそこまでで、(ミッテランの)帽子が、持ち主たちに、フレイザー言う処の「感染魔術」的に影響を与えてゆくのに対して、「青い壺」の方は、様々な人間模様を静かに見守り、それを読者に伝えながら壺自身も味わいを深めてゆく。改めて最後まで読み通して、そんな感想を持ちました。また、この小説は戦後から高度成長期にかけて変わりゆく日本人の姿の、貴重な証言としても読めるように思います。
 両作品は、まさに「物」が語る形式の小説ですが、他にも同様の手法を用いたものがあったような、と思い出したのは、これもつんどくにしている『古書の来歴』です。こちらは稀覯本ハガダーにまつわる話です。近々読んでみようと思います。
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映画『幻滅』を見て

最近、バルザック原作、映画『幻滅』を鑑賞していて思う処がありました。あるシーンを見ながら、唐突に、ウィリアム・バローズ原作/デビット・クローネンバーグ監督の映画『裸のランチ』のことを思い出したのです。こちらは三〇年近く前の映画ですが、ラスト・シーンにいたく感心するものがあり、ずっと頭に残っていた作品です。映画の終盤、現実とも幻想ともつかない国境で、バローズの主人公は、入国管理者に対して、自分の職業が作家であることを証明する必要が生じるのですが、「何か書いてみろ」とペンを渡され戸惑います。そして、その果てに苦渋の決断をするのです。「なるほど作家とはこういうものか」と、まだ若かった私は心を動かされたわけです。
 かたや、バルザックの主人公の方はというと、同様に作家であることを証明する必要にかられるシーンがあるのですが、ペンを渡されると即興で好きな女優の描写を流れるがごとく書き連ねるのでした。両極端な二者ですが、ブラッドベリーなどに言わせると、おそらく後者のやり方の方が良いアイディアが降ってくるタイプということになるのでしょう。三〇年近くもの間、クローネンバーグに一杯喰わされていたかなと思った次第です。
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本を探して図書館巡り

調べものをするため、都立中央図書館にゆきました。ところが、事前にスマホで検索をして対象図書の所蔵を調べてから訪問したにもかかわらず、館内での検索だとヒットしません。訝しく思いながらもう一度、スマホで検索をすると、不思議なことにヒットします。首を傾げながらよくよく確認したところ所蔵館が多摩でした。広尾の図書館で検索しても該当がないのは当然です。しかし多摩まではドア・トゥ・ドアで2時間以上はかかる距離です。あきらめ掛けたのですが、もしやと思い国会図書館のサイトで検索したところ該当がありました。国会図書館ならなんとか移動できる距離です。
 久しぶりに永田町の国会図書館にゆきました。IDカードを更新し、館内でいざ検索をしました。しかしながら、何と今度は所蔵が関西だったのです。事前に見たときに気づきませんでした。幸い書籍はデジタル化されており、画像で確認することが可能でした。その上、外部からも閲覧可能な書籍であったため、つづきを帰りの電車内でスマホで読むことが出来ました。便利になったものです。ちなみに該当書籍は、エバハルト・ユンゲル著『神の存在―バルト神学研究』でした。絶版の上、区の図書館やよく利用する大学図書館にも無かったものです。
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食わず嫌いの効用

読書において食わず嫌いで通してきた作品に、ユイスマンスの小説があります。学生の頃、愛読していた澁澤龍彦のエッセイで、しばしば『さかしま』のタイトルを目にしたのですが、大いなる勘違いをしており敬遠していたのです。勘違いとは、澁澤が他に紹介してる作家たちとまぜこぜにして、『さかしま』をシュルリアリスト系の小説と思い込んでいたのです。シュルリアリスト系の小説はいくつか読んで肌に合わないものを感じていました。
 それが、ひょんなことから誤解がとけ手にしてみることにしました。ミシェル・ウエルベックの『服従』を読んだのです。『服従』の主人公である大学教授はユイスマンスを専攻しており、人生の行き詰まりをユイスマンスの小説の主人公ゼッサントになぞらえて打開しようとするのですが上手くゆきません。そこに、ユイスマンスの時代はまだ良かった、という感慨を見たのですが、そこから、これはどうやら私は、誤解していたらしいと気づいた次第です。併せて『彼方』も読みました。おそらくユイスマンスというより、翻訳者の田辺 貞之助の文体に好ましいものを感じています。『大伽藍』も少し時間が掛かりましたが新本で入手できました。
 こうして読書の幅を広げることが出来たのも「食わず嫌いの効用」と開き直ることにしました。
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『ブレードランナー』の罠

映画から入って原作小説を読みだすと、違和を感じて読み続けられないことがしばしばあります。前コラムの『裸のランチ』がそうでしたし、映画『ブレードランナー』もそうでした。こちらは、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』が原作ですが、本好き仲間の同意もあり、好事例に数えられると思います。『ブレードランナー』は、さらに紛らわしいことに、ウィリアム・バローズが、全く無関係な同名小説を書いており、知らずに読んだある友人が、映画と異なる上、余りに猥雑なので閉口したと愚痴をこぼしていたことを思い出します。実は、私も同じ経験をしており我が意をえたりとうなずいたものです。
 グノーシス主義に関する調べものついでに、ディックの新訳版『ヴァリス』を探して書店を巡ったのですが、SF文庫の背表紙を眺めながら思い出した次第です。
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『真夜中のパリ』

好きな映画は何かと尋ねられて、真っ先おもい浮かぶ作品のひとつにウディ・アレン監督の『ミッドナイト・イン・パリ』があります。同監督の近年の作品に対しては、往年のファンから辛口の批評を聞くことがありますが、私は逆に、落ち着いた雰囲気の最近の作品の方が好ましく思えます。『ギター弾きの恋』あたりから興味を惹かれ、『ミッドナイト・イン・パリ』はもちろんのこと、フーディーニの逸話を彷彿させる『マジック・イン・ムーンライト』等も面白いと思いました。
『ミッドナイト・イン・パリ』では、文学志向の中年男の主人公がパリで1920年代の文豪、文化人達と出会います。この設定を無理やり分類すれば「異界」「異次元」ものということになるかもしれませんがSFめいた印象はありません。フィッツジェラルド夫妻、ヘミングウェイ、ダリ、ブリュニエル、ピカソ、ガートルード・スタイン等、そうそうたる面々が登場します。状況を日本に置き換えたらどうなるだろうか、と試してみたことがあります。しかし、芥川、中原、太宰など、どちらかというと遠巻きに眺めている分には興味深いものがあるけれど、あまり近しくなりたくないなと思う顔ばかりが思い浮かび、なかなか「真夜中の東京」とはゆきませんでした。
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ダリオ・アルジェント作品のトリビア

少し前、公開映画情報で、久々にダリオ・アルジェント監督の名前を見かけました。ダリオ・アルジェントと言えば、『サスペリア』で一種のブームを巻き起こしたホラー映画の巨匠です。それがもう半世紀近く前のことだと改めて認識すると歳月を感じます。同監督の新作は、残念ながらと言わざるえませんが、まるで時間が止まったようなB級映画ぶりでした。こうした場合、「そこが好い」というケースも、ままありますが、今回は裏目に出たようです。逆に言えば『サスペリア』の衝撃はそれほど大きかったと言えるでしょう。
 同作のトリビアとしてたまに言及されるのが、「『サスペリア』という題名は、イギリス湖水派の作家、トーマス・ド・クインシーの『深き淵よりの嘆息』から来ている」というものです。『深き淵よりの嘆息』の原文タイトルは「サスペリア・ディ・プロフィンディス」と言うのですが、これに由来するというものです。
 もちろん、ド・クインシーの作品はホラーではありません。『深き淵よりの嘆息』は、一言で言えば作者の阿片体験記ということになるのでしょう。ただ、その中でアヘンの影響により、過度に敏感となったド・クインシーが、ちょっとした心の揺れから深層心理に潜む畏怖すべき魔女達を連想作用で呼び覚ましてしまうというエピソードが紹介されています。野島秀勝の優れた翻訳が、ド・クインシー描く、妖にして玄なる魔女三姉妹の威容を伝えます。文章表現で、同箇所以上に、恐怖と美が同時に表されるような作品を他に知りません。ダリオ・アルジェント監督がオマージュを送るのも、むべなるかなと思います。そして、ド・クインシーを読んでしまうと、映画『サスペリア』の方は色褪せます。それは、とりも直さず映画では恐怖の正体が映像的に示されてしまった点にあると思います。ド・クインシーの原作に忠実な映画を、誰か物好きな監督が撮ってはくれないものかと、無いものねだりをしたくなりました。
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『黄金時代』

「ダリオ・アルジェント作品のトリビア」でお話しした「『恐怖の正体』は最後まで不明なままの方がホラー映画の効果が上がるのではないか」という見方は、実は澁澤が『黄金時代』というエッセイで示していたものです。その件を読んだとき、正にその通りだと目から鱗が落ちた思いがしました。ホラーにしろサスペンスにしろ、謎を追っているときの方が面白く、怪物めいたものがあからさまに姿を現すと、何だかしらけてしまう。そんな体験が無意識のうちに積み重なっていたからだと思います。
 その点、小説の方が有利だと思うのは、文字表現の自由度が読者に程よい想像の余地を残してくれるからだと思います。具体例を挙げるとすれば、例えば、稲生平太郎の『アクアリウムの夜』は、日本人作家の怪奇幻想ものとしては白眉と思うのですが、改めて思い出してみると、意外に「恐怖の正体」は終盤であからさまになっています。それでいて白昼夢のような気だるい不気味さが余韻として残るのは、やはりこれが文章表現だからだと思います。映像表現の場合、同じ怪物めいたものでも、醜悪さを無理やり物理的に表現するよりも、ターセム・シン監督『ザ・セル』のようにいわば象徴的に描く方が恐ろしくなる。とそんな気がしました。
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『ラ・ミッション 軍事顧問ブリュネ』

映画『燃えよ剣』に、ほんの束の間登場する異国の軍人がいました。興味を持ってたどりついた本が、佐藤賢一著『ラ・ミッション 軍事顧問ブリュネ』です。ブリュネは、幕末に幕府に雇われたフランス陸軍の士官でした。彼は、西洋式砲術に精通した幕府の精鋭部隊を育てあげます。彼の訓練した部隊は薩長に引けをとらないどころか戦闘能力は充分それを上回っており、鳥羽・伏見の戦いもリーダーシップ次第では勝算はあった。とブリュネは考えます。戊辰戦争での同部隊の活躍振りからは、これが、けっして彼のひいき目ではないことがわかります。映画『ラストサムライ』の真のモデルは、実は、ブリュネだったと知り二度驚きました。
 同小説を読んでから、土方歳三に対する見方も変わりました。それまでは司馬遼太郎が描く土方の「残忍」な人物像に影響されていたのですが、志に忠実で窮地においても最後まで諦めず、現実的な合理主義者として有能さを発揮する英雄的な姿に関心を引き付けられました。どちらが真の姿か、という問いは別にして小説的な人物像としては佐藤の描く土方に魅力を感じるのは訊ねるまでもないことです。
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「コージー・ミステリー」

ある時期、ミステリ小説に興味を持ってみたものの、どれを取っても人が死ぬ話ばかりで辟易していた頃、コージー・ミステリーというジャンルがあることを知りました。「コージー」は、「コージー・コーナー」や「コージー・アイランド」のように用いられている形容詞で、「くつろいだ」といった原意があるそうです。では、実際にどんな作品があるのか、いざ探し始めたのですが、海外ミステリーで同ジャンルの代表作として紹介されている小説は、登場人物の造形が「コージー」な設定ではあるものの、ストーリーとしてはやはり誰かが死ぬことを前提にしたものばかり目立ち、何だか騙されたような気になりました。
 そんな中、日本の小説に目を向けると、正に自分がイメージした、「コージー・ミステリー的」な作品群があることを知りました。ひとからも紹介され、いくつか読んでみたのですが、なかでも近藤史恵の〈ビストロ・パ・マル〉シリーズや坂本司の『和菓子のアン』シリーズが、つぼにはまりました。〈ビストロ・パ・マル〉では、町の小さなレストランを舞台に、観察力に富んだフランス料理のシェフがお店にくる客の持ち込む「謎」を推理します。私が、よく訪れる街カフェのマスタにこの小説を紹介したところ、「確かに個人商店主は、お客さんを見る目がないと成り立たない処があるから設定としてリアリティがある」とのこと。
『和菓子のアン』には上生菓子の奥深い世界を教えられ、読後におもわず日本橋まで季節の和菓子を食べにゆきました。世の中、まだまだ知らないことばかりです。
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ヘルマン・ヘッセ著『デミアン』

ヘルマン・ヘッセの小説は、中学生の頃に『車輪の下』を手に取ったばかりで、その後とくに読み続けたわけではありませんでした。しかも『車輪の下』自体、通読した記憶がありません。読書感も堅苦しい雰囲気しか記憶にないので、中断してそのままにしていたと思います。それが、『デミアン』を読んでみようと思ったのは、やはりグノーシス主義に関する調べもののついででした。文庫本が薄手で、これなら読み切れると安心したということもあります。
 ところが、今回もまた「食わず嫌いの効用」でした。『デミアン』は予想外に引き付けられる内容だったのです。余りにも著名な作家の作品なので、主だった点に関しては他のサイトにお任せすることにして、当コラムでは、全く本筋とは関係のない脱線エピソードを一つご紹介します。
 小説の後段に主人公のシンクレールが、その道の先導者と見込んでいたピストーリウスに見切りをつけ引導を渡す、「ヤコブの戦い」という一章があります。そこで、シンクレールは、言葉のジャブを繰り出すのですが、その際に用いた皮肉が、なんとも聞き捨てならないことに「古本くさい」なのです。しかも、一度ならずも二度、三度と「古本くさい」が登場します。シンクレールも自分が「古本くさい」ことを認めるのです。一体、第一次世界大戦頃のドイツでは「古本くさい」という慣用表現でもあったのかと訝しく思いました。そこで、原文にあたることしにしました。

so verflucht antiquarisch! (ひどく古本くさくていけませんよ!)
Ich werde Sie mit dem antiquarischen Zeug verschonen(古本くさいことできみを悩まさないようにしよう)
Sein Ideal war “antiquarisch„(彼の理想は「古本くさく」)
(注)括弧内、新潮文庫『デミアン』185~187頁からの引用。

“antiquarisch„(使い古された、古物の)という語は用いられているものの、単独では特に「古本くさい」に限定した意味ではないことが分かりホッとした次第です。和訳は前後の文脈から判断されたものなのでしょう。
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絵本体験

初めての土地に訪れるときには、いつもあらかじめ古書店と、食事処、カフェの三箇所を調べてゆきます。古書店は、近隣の街にも網を広げ、なるべく楽しみが増えるようにします。しかし、よく調べると、選んだお店の中に絵本専門店が入いっていることがあります。そんなとき以前は、当てが外れた気になったものです。さすがに絵本でもあるまいと、はなから拒絶していたわけです。
 先月、佐倉を訪問した際に、市の美術館で「宮西達也の世界 ミラクルワールド絵本展」が開催されていました。気の向くままに訪れた場所ですが、何だか待ち構えられているような気になって、足を踏み込みいれることにしました。全く不案内な「世界」ですが、たまには覗いてみようか、といった感じです。ところが、展示は思った以上に楽しいものでした。ヒーローが怪獣を倒せばよいという勧善懲悪の物語に、批判精神を持ち込む手法は、今時、様々ありますが、宮西の場合、そこに皮肉がなく、むしろ温かみをもたらしている点に感心しました。展示された絵を見ながら、こちらもつい童心に返り、気づけばほほが緩んでいるのでした。
 以来、古書店を訪問すると、宮西の作品を探して、絵本コーナーにも足を向けるようになったのです。
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誤解の楽しみ。映画『ドラッグストア・カーボーイ』

ガス・バン・サント監督の自伝的映画とされる『ドラッグストア・カーボーイ』を劇場で初めて見たのは、もう三〇年以上も前のことです。その内容を、「麻薬を常習する若者グループの無軌道な生活ぶり」と、一言でまとめてしまえば、身もふたも有りませんが、スタイリッシュな映像やパンクなのり、実力派の俳優陣、ウィリアム・バローズ当人のカメオ出演と充分以上にアピール性のある作品でした。特にエンド・ロールの背景で流れる8ミリ風の映像とオールディーズの軽快なBGMの組み合わせを新鮮に感じたことを覚えています。
 十年ぐらい経過してから、レンタルDVDで本作を見直したときに、妙なことに気づきました。私は初めてこの作品を鑑賞した際、悲しいバッド・エンドの物語だと思い込んでいたのです。せっかく立ち直ろうとした主人公が、不幸にも過去の因縁から事故に巻き込まれてこと切れる。そして映画自体のストーリーは、その瞬間の回想を物語った話だと思っていました。しかし改めてラスト・シーンの台詞をよく見直してみると、主人公は重傷を負ってはいますが、言葉に死の暗示はなく、むしろ再生への決意を感じさせる。そう受け取る方が自然だと思ったのです。ほんの短いシーンですが、作品に対する印象が180度変わりました。
 記憶というものの曖昧さを痛感したと伴に、一つの作品を二度味わえたようで得をした気分にもなりました。今、見直したらどんな感想を持つのでしょう。
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「月の都」の不思議

『竹取物語』を読んでいて、不思議に思ったことがあります。物語の最後に、かぐや姫は月の都に帰ってゆくのですが、この物語が書かれた当時の人々は、一体、月をどのような場所だと思っていたのでしょうか。『竹取物語』の成立年代に関しては、専門家の間で確定されていないようです。ただ遣唐使や唐末期の文化的影響がみられることから、十世紀頃という説もあるようです。そして、「月の都」の設定に関しても、中国神仙談の「月宮殿」がモデルになったという見方があるようです。「月宮殿」は「嫦娥奔月」という神話に登場します。嫦娥は、『西遊記』の猪八戒が、天蓬元帥であったころちょっかいを出した相手としても知られています。とりあえずこの、「月宮殿起源説」に沿って考えてみます。
 さて、中国科学史を紐解くと、古代中国の宇宙観には、蓋天説、渾天説、宣夜説の三説があり、このうち宣夜説は、天体を球体と見るもっとも近代宇宙観に近いものといえるようです。ただし、同説は少数派であったらしいこと、また「嫦娥奔月」の出典である『淮南子』が、蓋天説を採っていることからおそらく、「月宮殿」のある月は、蓋天に張り付いている平面な場所と見なされていたと推測されます。すると興味がわくのはどのような思考方法から、そうした平らかな場所に、宮殿や天人たちの存在を想定したのかという点です。現代人的な発想にとらわれず推理する必要があるでしょう。
 一つ仮説を考えたのは、「神仙譚的発想」です。中国の神仙譚では、屏風に描かれた絵の世界に遊びにゆく、すなわち二次元世界と三次元世界を自由に往来できるという考え方があります。もしかしたら、この発想方法が関連しているのではないかというものです。ただし、思い付きの域を出ませんのでこの件は、今後の愉しみとして宿題にとっておこうと思います。
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漢詩の難しさ

学生の頃、講談社現代新書の渡部昇一のエッセイを好んで読んでいた時期がありました。渡部は英語におけるラテン語起源の言葉と、ゲルマン語起源の言葉の関係を、日本語における漢語起源のそれと、地の言葉の関係に当てはめ、大和言葉を説明していました。大雑把に要約すると日本人は、漢文調になると固く勇ましくなり、大和言葉調になると柔らかくたおやかになる。とそんな話です。なるほど、そうだよなと納得したものです。
 ところがその後、通いだした予備校で、当時はまだ漢文の授業があったのですが、その頃としては斬新な方法で授業を行う先生がいらっしいました。その先生は、現代中国語の文法から漢文の解説してくださり、それが、とても分かりやすく理にかなった説明だったのです。そして授業のおまけで、唐詩を一首、現代中国語で吟じてくださいました。そのとき受けた印象は今でも強く脳裏に残っています。いわゆる「漢文」のイメージと全く異なり、ショックを受けたのです。丸く、柔らかく、弾力性のある音感は視覚のイメージとまるで対象的です。全く角張っていないのです。
 難しいのはここからです。「漢文」(正確には、漢文訓読)はあくまで日本化された中国文学です。ですので、上述のような印象の格差は、いわば、あくまで日本文化の文脈で生じている事象と思われます。では、中国文化の文脈ではどうなるのか。おそらくですが、「音」として私が感じたような差異は当然ながら発生しないとして、視覚的には、これも当然、現代中国語と古語の間には違いがありますので、「古い」という感じ方をするのでしょう。
 以上はあくまで憶測ですが、同じ漢詩に対する印象が、日本の読者と中国の読者でどのように異なるものか、深堀してみると何か出てくるかもしれません。
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ソウル・ブック『光車よ回れ』

小学生の頃に手に取って以来、ことあるごとに繰り返して読んでいる作品に、天沢退二郎の『光車よまわれ!』があります。世界観、登場人物の構成、物語の雰囲気と、どれをとっても読みかえすたびに感心させられます。奇しくも、文庫本の解説者が言っていましたが、私にとってもこの本はソウル・フードならぬ、「ソウル・ブック」といえるでしょう。
「光車」はもちろんのこと「地霊文字」など物語に登場する設定には、どこかにありそうな気にさせられる不思議を感じます。もしかしたら「光車」とは「チャクラ」を寓意しているのだろうかと考えたこともありますが邪推ですね。そのままを楽しめばよいのだと思い直しました。いちばん思わせぶりな小道具に「ドミノ茶」があります。一体、どんな味がするのかと毎回興味を惹かれるのですが、そういう処も本書の魅力の一つなのでしょう。
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ウンベルト・エーコ著『プラハの墓地』

一箱市に出品した『プラハの墓地』について、何人かのお客さまから本に関する質問受けましたので記載しておきます。

質問:「どういった内容の話でしょう」
回答:「歴史上悪名高い偽書の形成過程を、史実を踏まえつつ、面白おかしいフィクションとして仕立て上げたものです」

質問:「読みやすい本でしょうか」
回答:「筋が錯そうした感があり、一読では把握できませんでした」

質問:「読後感はどうでしたか」
回答:「正直あまり気味のよいものではありませんでした」

 この時、お伝えできなかった点を付け加えておきます。『プラハの墓地』で扱っているテーマは一般に「陰謀論」と呼ばれる世界ですが、一見恐ろし気な世界も舞台裏を覗き見すれば滑稽さが浮彫になる。どちらの側面を見るかは、そのひと次第である。エーコのメッセージをこのように受け止めました。
 同類のテーマを扱っていても、スリラー仕立ての『ヌメロ・ゼロ』の方が読みやすい印象があります。
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団鬼六著『真剣師 小池重明』

「下手の横好き」と言えばまだしも、ほとんど「門外漢の妄想」として興味がある分野に将棋の世界があります。私、当人はまったく将棋のセンスが無いのですが、不思議とそれをテーマにした漫画やエッセイに興味を惹かれます。漫画で言えば、能條純一著『月下の棋士』、柴田ヨクサル著『ハチワンダイバー』を、一時期繰り返して読んでいました。後者は、賭けで将棋を指す「真剣師」の成長物語です。
 エッセイでいえば、何年かに一度、ふと気になって読み直すこの分野の読み物に団鬼六著『真剣師 小池重明』があります。
 小池は、破格な天才肌の将棋指しです。年齢的に奨励会に間に合いませんでしたが、実力はプロを上回り、名立たる有段者との勝負に勝ちを重ねてゆきます。ところが、そうした将棋の異能とバランスをとるように生活は破綻しており、定職は手につかず、借金は踏み倒し、恩人から資金を拝借したまま人妻と逐電するなどのひどい有様です。
 団は文人の嗜みで、将棋を指しながら棋界のパトロンのような役割を果たしていました。そうした中、小池との縁が生まれます。小池は、生活は破綻していましたが愛嬌があり、著者の団も煮え湯を飲まされながら何かと面倒をみることになります。団による、小池の指す将棋の描写で面白のは、小池が、中盤から終盤にかけての未踏の地を、周りから見ると奇妙な足取りで彼なりに歩んでいるうちに勝ちにつながってゆくとする処です。団は、小池がまるで相手の心を読んでいるようだと感想を漏らします。いずれにせよ小池というのは、AIでは模倣不可能なタイプの棋士であったことは間違えないと思います。そんな処が、同書に惹かれる要因の一つかもしれません。
 一時期、ブック・オフの廉価本コーナーで単行本をよく見かけましたが、現在はどうでしょう。
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翻訳と原文

翻訳物の作品を気に入って、一体、原文はどんなものだろうと手にしてみることがあります。ところが、心がゆさぶられた一文の原典に当たり、たどたどしく辞書を引きながら、一応意味は理解してみたものの、全く味気ない印象しか残らないのが大概のところです。特に、翻訳の文体が好みのものであった場合、自分は一体、翻訳者の作品に感動させられたのか、あくまで原文あっての話なのか見分けがつかなくなります。なんとか原文を味合うにはどうしたらよいか。例えば、原文の一節を文法的に読めるようにした上で、それを素読しながら翻訳を想起するといった試みをしてみたことがあります。ですが、そうするとやはり振り出しに戻って、自分は翻訳の方を味わっているのではないか、とまた疑念がわきます。
 一方で、こんなこともあります。謎めいた外国の詩文を何とか読解しようと毎日のように同じ詩句を繰り返し読んでいると、当初は無味感想な文字の集まりに過ぎなかったものが少しずつ息づいてきて味を持ち始める。まさに「読書百篇」です。
 どちらが正しいということではなく、様々なアプローチを試みることができるのも外国文学の楽しみのひとつなのでしょう。  
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「メシメリ街道」

よく訪れていた角の中華料理店が更地になっているのを見て、山野浩一著「メシメリ街道」を思い出しました。同作を読んだのは、筒井康隆の『70年代日本SFベスト集成』でのことです。この年のベスト集成は山野以外にも指折りの傑作が並んでおり、河野典生著「彼らの幻の街」、荒巻義雄著「柔らかい時計」、藤本泉著「ひきさかれた街」等の作品は、長く頭に残りました。なかでも特に、「メシメリ街道」に印象深いものがありました。
 昼日中、初めての街を歩くようなときがあると、坂を登った先に、あのお婆さんが筵を引いて古本を売っているのではないかと夢想することがあります。時間を短縮して考えれば、変わりゆく街並みはメシメリ街道の相貌を現実に表していると言えるようにも思えます。
 主人公は最後に悪夢から目覚めることが出来たのか。ずっと気になる結末です。  
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滝田ゆう著『寺島町奇譚』:「シーさん」考(前篇)

昭和初期を経験した父の愛読書の一つに、滝田ゆうの『寺島町奇譚』がありました。下町の風俗を情緒豊かに描いた作品、と言ってしまうと陳腐すぎますが、独特の感触というか匂いのする読み物、という印象が残っています。まだ、小学生だった時分、父の書棚から、拝借してこっそり読んだものです。今から思えば、別に、読んで咎められるような内容とも思われませんが、当時は、何となくそんな気がしていたのです。
 記憶にある場面に、銘酒屋の女が大声で客を呼び込んでいるものがありました。それから「シーさん」という名も記憶に残りました。何だか面白い呼び名だなと、覚えていたのです。後年、一時期、現代中国語の上海方言に興味をもったときがあったのですが、「学生」の発音が丁度、「シーサン」だったことから、ふと、同作のことを思い出しました。作品の背景となる昭和初期という時代を考えれば、上海の言語、風物が日本に流れてきた可能性も無くはないかな、と一瞬思ったのです。  
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滝田ゆう著『寺島町奇譚』:「シーさん」考(後篇)

あるとき真偽を確かめるため、国会図書館に立ち寄るついでに『寺島町奇譚』を閲覧してみました。残念ながら、「シーさん」「学生」説は、成り立ちそうもありませんでした。というのも、同書で確認した「シーさん」は「銀ながし」の中年男で、とても学生の呈ではありません。呼びかけも、むしろ、あだ名のようです。同書の冒頭で学生服を来た青年が銘酒屋の女に袖を引かれている場面がありましたので、おそらくそこから連想が起きたのでしょう。ちなみに「銀ながし」とは、キヨシの親父さんの説明によると、お金もないのにいいものを着たり散財したりして見栄を張って見せる人のことを指すそうです。
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小説かエッセイか。ポール・オースター著:"The Red Notebook"

全く好みの問題ですが、小説よりエッセイの方が面白く感じる作家のひとりにポール・オースターがいます。オースターには、邦訳未訳の"The Red Notebook"というエッセイ集があるのですが、これは心理学者ユングの『赤の書』を意識したタイトルです。オースターは、ユングの共時性(因果関係が認められない、当人にとって心理的に意味のある偶然の一致)概念に関心があり、実体験や直接耳にした共時性体験をエッセイの題材にしているのです。初期の小説作品には、そこから敷衍して物語の世界観を決めていたこともあったようです。 
 そうした舞台裏を知ってしまうと、作家のたなごころが加わっていない分、実地で起きた「不思議な話」の方に興味が引かれるというのが、私の好みというわけです。
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山田慶児著『混沌の海へ』

科学史、科学哲学の分野で「オルタナティブ」(もう一つ他の選択肢)というキーワードが重視されていた時期がありました。西洋近代科学の偏向に対して、他の文明、文化を背景とした科学から補完する知の枠組みが再発見されないものか、との期待が背景にあったのです。そのような中で、注目されていた分野のひとつが中国の科学です。『混沌の海へ』は、同分野の開拓者であり第一人者ともいえる山田慶兒の初期の頃のエッセイ集です。学生時分、手に取って繰り返し読み込んだものです。ともすると掛け声に終始するきらいがあった「オルタナティブ」な科学思想について具体案を提示している点が本書の興味深い処でした。
 ときおり古書店で見かけることがあります。二、三度見かけてどれも大分手垢のついているものでした。喜ぶべきことでしょう。
 近年、臨川書店から同著者の全集が刊行されています。
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『デューン/砂の惑星』

フランク・ハーバート原作の『デューン/砂の惑星』は、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督で二度目の映画化となりました。新装版の小説が刊行されたのを切っ掛けに改めて原作を読み直しています。
 この小説の、一度目の映画化は、デイヴィッド・リンチ監督、カイル・マクラクラン主演で四〇年近く前に公開されたものです。どちらも映画館で見ました。もちろん現時点で両者を並べて見比べてしまえば、近年の作品の方が映像として完成度の高いものになっていることは疑いないものですが、鑑賞者側の視点でいうと、まだ鑑賞眼がすれていなかった分、前作の衝撃の方が大きいものがありました。何といってもデイヴィッド・リンチ監督独特の造形美に圧倒された記憶があります。しかし、一歩、距離をおいて省みると、恒星間航行技術を持つ文明のあり方にしては、同作に登場するもの全てがアナクロニズムに過ぎた感じ拭えません。戦闘シーンの衣装や施設は、二〇世紀初頭、皇帝や王家の外見は、一九世紀風の衣装を思わせます。好意的に見ればそうした工夫は一種の記号として働いていたのでしょう。
『デューン/砂の惑星』には、アレハンドロ・ホドロフスキーが心血注いで映画化を志し断念したというエピソードがあり、それ自体がドキュメンタリ映画になっています。絵コンテは、BD(フランス流の漫画)作家のメビュウスが担当し、あのサルバドール・ダリに出演の声を掛けたというのですから驚きです。型破りなホドロフスキーはもちろん衣装にもこりました。映画化が実現したら一体どのようなものになっていたのか想像してみるのも一興です。
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『荘子 内編』

宮城谷昌光著『三国志』を読んでいたところ、「『論語』は平時の処世の書とすると、一方で『荘子』は乱世の処世の書ではないか」という主旨の指摘がありました。『荘子』に志士の実用書というイメージを持っていなかったため、興味を感じ、実際に紐解いてみることにしました。日本語訳は複数ありますが、福永光司、興膳宏 訳の『荘子 内編』を選びました。道教の日本文化に与えた影響を説いた、福永の著作を読んだことがあり、なじみがあったのです。
 すると、「人間世篇」には直接的な仕官や交渉に関わる助言が題材になっている問答が複数あります。それ以外のたとえ話の類のものも、読み方によっては確かに、処世の書と読めると思いました。「逍遥遊篇」の鵬の話や、「胡蝶の夢」等、代表的な逸話をつまみ食いして、老荘とひとくくりに、すっかり『荘子』を読んだ気になっていたのですが、目から鱗の思いがしました。
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