本書は、自然環境との共生について、現代人が見失った水土の思想に新たな光をあて、かつ現代科学および技術を越えたパラダイムを予感させる貴重な一冊です。江戸時代の農書や治水・土木技術の重要性は古くから唱えられて来ましたが、本書の著者は現代科学の成果も踏まえ、そうした知見を実践に活かし成果を上げ、分かりやすい形で説明する稀な存在です。本書のキーワードに、「水脈環境」「通気浸透環境」というものがあります。ざっくり言えば土中の階層毎の毛管網ということですが、植物の根から菌糸を通じてこの毛管網に連なるネットワークは、動物の内臓組成にも通じ、生物と環境が同根であることを直感的に示唆し、生命を解くカギを示唆しているようにも読み取れます。
集中豪雨で、現代的なコンクリート処置が崩壊する一方で、伝統的な石積みが機能している姿は雄弁です。異常気象が問題というより、異常気象に耐えられない水土環境にしてしまったことが問題という視点が重要と思いました。これまでも槌田敦、室田武等の識者が理論的に予見していたことですが、逆説的に言えば、日本の水土環境の悪化がそれほど進行し、経済的な損得勘定からしても、本書のような意見に注目せざるえなくなったのが現状、ということなのでしょう。危機を機会に転じる知恵の詰まった本です。
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完訳『ファーブル昆虫記』第1巻上を読み始めました。良く知られたフンコロガシの話から始まるのですが、最初からその詳細な記述に圧倒されています。同じスカラベといっても本当に様々なバリエーションがあるのです。小さい頃、ジュニア版の昆虫記を手にして、『ファーブル昆虫記』を読んだつもりになっていたのですが、初めて読むような感じがします。やはり原典にあたるものです。
著名な作品ほど、読んだつもりになっているものが他にも多くありそうです。
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『ファーブル昆虫記』第1巻上(8/2付けコラム)の続きです。ファーブルは観察中のスカラベに、色々試練を与えて様子を見ます。ご馳走の糞玉を、籤のようなもので少し高いところに立てると、スカラベは賢明にそれを捉えようとします。小石で石段を作ってやると、偶然任せなのか、意志あってのことか、石段を登って糞玉を取り返すこともあります。
この、偶然任せなのか、意志あってのことかというのは重要な話だと思います。おそらく現代科学では、「偶然」としてスカラベの行動を人間のそれと区分するかと思います。しかし、よく考えてみると人間も経験の無い事態に対しては、「試行錯誤」で解決することが常です。この点から見れば、スカラベも人間も変わりないことにならないでしょうか。もちろん異なるのはその後のことですが、相違点より相同点に注目することで気付くこともあるかと思われます。
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本に書いていないことなど当たり前、と一人前の大人なら言うかもしれません。ですが、分かっているつもりのことが、いざ調べだすと全く自分が理解していないどころか、世の中的にもはっきりした答えがない、という経験を、最近いくつかしています。例えば、磁石です。磁石が鉄を引き寄せる性質は、日常で当たり前に利用されています。当然、吸引力を算出する式などあり、メーカーが製品を設計する際には理論値なり出していると思い込んでいたのですが、この磁石の力というのは、具体的に正確な数字を出すことが非常に困難なようです。現場でも理論的には暫定値を、後は実験で確かめるしかない、ようです。こんな「当たり前」な処に、「けもの道」が隠れているとは思ってもみませんでした。「無知の知」というのは真実のようです。
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調べもののために、古典ヘブライ語を少しかじったのですが、一つ面白いことに気づきました。ヘブライ語の単語の中に、英語やフランス語と発音がよく似たものが意外と見つかるのです。日本では、戦前に日猶同祖論という議論があり、論拠の一つに発音と意味が類似する単語や言葉が複数存在することが挙げられました。しかし、それだけでは根拠として今一つということになります。そもそも、アラビア語起源の単語が多いわけですし。田中英道が主張する渡来人説あたりが妥当な線かと思います。同氏の『ユダヤ人埴輪の謎を解く』を読むと、確かに弥生時代の武人とされる埴輪はラビそっくりに見えてきます。
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洋楽、特に欧米のロック・バンドの楽曲は、歌詞がそのままでは分からないので、私は、リズムやメロディーから自分の好みをきめて何となくわかったような気分で受け入れます。ところが、時間が経ってから、昔好きだった曲の歌詞の意味を調べだすと、全く思い描いていたイメージと異なり啞然とすることがしばしばです。喩えていえば、村上春樹の『ノルウェーの森』をメルヘンチェックな恋愛小説だと思い、いざ読んでみて衝撃を受ける体験と似ています。
また良く調べても、時代的なスラングが多用されていて意味がわからなかったり、単語の意味が分かっても用いられ方が分からない場合もあります。一例ですが、個人的に好きだった、BECKの初期の頃の曲に、"Devil's Haircut"というのがあるのですが、題名からして直訳では意味が分かりません。しかし、面白いことに、この"Devil's Haircut"はネイティブの間でも議論があり、現在使われている用語の起源の一つに、BECKの曲が挙げられており、どうどう巡りをしています。BECK自身は、「ごく単純な虚栄の悪徳についての隠喩」と言っていたそうです。そうすると、サビの部分の"Devil's Haircut in my mind"は、超訳すると「俗な思いが、またうずく」といった感じになるのでしょう。何だか哲学書の翻訳のようです。
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ことSF映画というジャンルで言えば、20世紀後半から21世紀初頭にかけては、ハリソンフォードの時代と呼ぶことが出来るのではないでしょうか。彼は、『スター・ウォーズ』『ブレードランナー』『インディ・ジョーンズ』に始まり、各作品で四季を象徴し演じた俳優です。前二作で、秋と冬が終わり、とうとう『インディージョーンズ』も今回で晩秋をむかえたようです。思考より行動で示す役柄が多い彼は、現実のトークやバラエティに登場しても、飄々として無を体現しているかのような印象があります。何となく、そこが俳優として息が長い秘訣のように感じます。
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物の大きさは、不思議です。子供の頃通っていたある建物の入口に赤い滑り台がありました。よく遊んでいたので記憶に残っていたのですが、10年ぐらいしてから久しぶりに訪れたら、それは滑り台ではなく、単なる階段の縁だと分かりました。自分の背丈が変わったから相対的に小さくなったわけです。初めてSF映画を劇場で見たのは、『スターウォーズ』でした。巨大なスクリーンに圧倒され背筋に感動が走ったものです。近頃、映画館でスクリーンを目の前にすると、「目の中に収まってしまえば、スマホの画面と変わらないな」と思ったりします。これは見慣れたわけで、心理的なものと思われます。
しかし、いつも見慣れているいるはずの通りが、妙に広く感じたりすることもあります。「大きさ」とは、一体何なのかと思います。
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幼い頃、子守がてらに祖母が話しをしてくれた物語がいくつかあります。傾向として、奇妙な話し、不思議な話が多かった気がします。明治時代を生きた人ですから、新婚旅行も徒歩で、林道でオイハギに追われ、祖父が礫で撃退したという武勇伝もありました。なかには、後から能楽の筋書だったと分かった話しもあります。他の系統で、話しの前後を忘れてしまいましたが、うっすら印象が残っている一段に、次のようなものがありました。
海辺で、子供が一人ぼっちで沖の方を眺めていました。寂しそうな様子を見て、ある男が後ろから声を掛けたそうです。振り返った子供は、顔の真ん中に目が一つしかありませんでした。
祖母は、怪談で怖がらせようとしたのかもしれませんが、遠野の語りのように淡々と聞いていた記憶があります。
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ネット・メディアの発達で、過去の映像作品を比較的容易に見ることが可能になりました。最近いくつか見直しているものがあり、『ギルガメッシュ』がそのひとつです。石ノ森章太郎原作へのオマージュ作品であるこのアニメは、スタイリッシュな点で秀逸で、ストーリーに文学的とも呼べるテーマが散りばめられてることも好もしく感じました。振り返ってみると、イシグロ・カズオが小説『わたしを離さないで』で世に問うた主題を先取しており、かつ個人的には、『ギルガメッシュ』での扱いかたの方が心に響くものがありました。世界観の設定も上手く、もう、二〇年近くも前に放映されたものですが、今見ても古びた感じがしません。
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1970年代に放送された佐々木昭一郎(演出/作)の「川」3部作は、私の中では、暫くの間、幻の名作でした。幻の、というのは、まだ小さかった子供の目で見た断片記憶しか残っておらず、深い印象があったものの一つのストーリーとして把握できていなかったからです。だいぶ時間が経ってから、愛宕山のNHKアーカイブで過去の作品を見ることができると知り、わざわざ訪問したものです(NHK放送博物館内にあったと記憶しますが、うろ覚えです)。懐かしく鑑賞したはずですが、その記憶も相当薄れてしまいました。現在では、有料ネットで見ることが可能なようです。世代を越えて作品を楽しめるようになったことは歓迎すべきですが、「幻」ではなくなったことが妙に残念な気もします。
(『アンダルシアの虹』は、3部作のうちの一作品で一番記憶に残っていたものです)。
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先週(8/3付けコラム)に引き続き、『ファーブル昆虫記』です。2巻に進みました。ファーブルが関心を持った主題の一つに、昆虫の「本能」があります。蜂を観察したファーブルは、その巧みな生活行動が、とても偶然の積み重ねで獲得されたものとは思えない一方、それがプログラムされた行動で、想定外の事象に対する応用が効かないことも発見します。ファーブルはそれらの特徴を、昆虫の生来的な行動習慣として「本能」と呼びました。
人間の赤ん坊は、プールに放つと勝手に泳ぐそうです。私自身、そうだったと聞かされました。ところがどこかのタイミングで自我が目覚め、「水に対する抵抗感」が生じると途端に泳げなくなります。その後は、「泳ぎ方」を習得する必要が出てくるわけです。この場合、前者が昆虫と同じ「本能」に当たると思います。では、次の例はどうでしょう。小学校の夏休みの課題で、蚕を育てるという課題がありました。結果は子供によって極端な差が出ました。ほとんどひん死状態の蚕をクラスに持ち帰る子がいる一方で、丸まると太った立派な蚕を持ち帰ってきた子もいました。私は、生得的な「生き物を育てる」感覚のようなものが存在するのではないか、と想像しています。
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以前、コラム(6/30付け、7/1付け)でも触れた宮城谷の「三国史」に「詩経」の話が出ていました。そこで、一くさり。「詩経」は、古来、中国で知識人の基礎書とされた四書五経のうちの一書です。私は、学生の頃、岩波文庫の翻訳にさっと目を通しただけで、きちんと読んだわけではないのですが、ひょんなことから、「關雎」という詩だけは記憶に残っています。
当時、ロック音楽に興味があり、ジョーン・ジェット&ブラック・ハーツの曲が好きでした。といっても往年のロック・ファンの方々しかご存じないかと思います。「アイ・ラブ・ロックンロール」という曲で80年代を風靡したバンドでした。このバンドが、60年代にボビー・ルイスが歌ったポップ・ソングをカバーした、"Tossin' & Turning'"という曲があります。「恋する相手のことを思うと、夜も眠れない」という主旨の歌ですが、サビの部分が、まさに、「關雎」にある、窈窕淑女(窈窕たる淑女は)、寤寐求之(寤めても寐ねても之を求む)や、求之不得(之を求むれども得ざれば)、輾轉反側(輾轉反側す)に該当するのです。そう気づいたとたん、難しい漢字がすっと記憶に定着しました。
宮城谷は、「詩経」が「庶民感情を知るため」の重要な情報源だったという主旨のことを書いていました。現代風に言えば、「ロック」だったのでしょう。ついでに、「關雎」にある、「參差行菜 左右流之」は、リズムをとってスウィングする姿を彷彿させます。
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近隣にカラスが多く、よく鳴き声を耳にします。ときおり妙に感情がこもったような、人間クサイ声で鳴くやつがおり、興味深いものがあります。風の強い日など、仲間の安否を確認し合っているような気さえします。カラスは知能の高さで知られていますが、小銭を拾って自販機に入れて中から食べ物を取り出しているシーンを、昔テレビで見て感心したものです。
カラスは、魔女の使い魔としても知られていますが、案外、本当に訓練して利用・共存していたのかもしれない、などと思ったりします。
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カラスが光ものを好んで集めることはよく知られています。『ファーブル昆虫記』には、蜂の中にも、綺麗な様々な破片を収集するものがいるとあります。現代風に研究すれば色々と理屈はつくのでしょうが、ようは気になるから集めているということでしょう。
翻ってみて、人間の蒐集癖を考えると、つき詰めて考えれば、ようは気になるから集めるということにつきるのではないでしょうか。子供の頃、牛乳の紙の蓋を菓子箱一杯になるまで集めたことがあるのですが、特にこれといった理由は無かったように思います。その点は、カラスや蜂と変わりません。むしろ、違いがあるとしたら、人間はあるとき突然、蒐集を止めることもあるという点ではないかと思います。
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神保町の共同書店、≪ Passage by All Reviews ≫ で古書の取扱いを開始しました。徐々に充実させて参ります。順次、同店経由でのオンライン販売も開始する予定です。出店の書籍は、当HPのホームにある≪ Passage by All Reviews ≫ のリンク、もしくは次のリンクから閲覧可能です。
⇒≪ Passage by All Reviews ≫:「書肆ミスカ」へのリンク
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英語の文法において、もっとも重要で、かつ日本における英語教育の場面において、ある意味、軽視されてきた分野に「単数、複数、そして冠詞の使い分け」があると思います。英語の使い手が、それを第二外国語として学んだものか、子供の頃に実生活から学んだものか見極める際、この点を押さえることがポイントになると教えてくださった達人がいました。
さて、外国語として英語を学ぶ者にとって、付け焼刃でもよいので書籍で助けになるものはないでしょうか。管見ながら、お薦めできるのは、ランガーメール編集部著の『THEがよくわかる本』『aとtheの物語』です。
かなり昔に出版された小冊子ですが、当時は、書店のカウンターに無造作に置かれており、私は他の本を購入する際、いわゆるクロス・セールに引っかかったわけですが、「引っかかってよかった」という稀な経験をした書籍です。少なくとも同書の範囲内での区分については、確信が持てるようになり、職業的に英語を用いるのでなければ充分過ぎる内容だと思いました。(つづく)
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昨日(8/16日付けコラム)の続きです。この単数、複数の難しさは一筋縄ではゆかないのですが、思わぬところで大きな影響をおよぼすことがあるようです。具体例で見てみましょう。
"Wood"という単語は、基本的には、木、木材を意味し、"Woods"だと森を意味します。ところが、しばしば、"Wood"を林地、場合によっては森の意味でつかうネイティブもいるようです。では、ビートルズの曲、"Norwegian Wood"はどうなるのでしょうか。これは、"Japanese wood"と言ったとき一般的に何を指すかが参考になると思います。この場合、基本的には、日本の木製品を指します。そして、ビートルズの「ノルウェーの森」創作秘話を調べてみると、ビートルズのあるメンバーが浮気をした際に、一夜を過ごした相手の女性の住んでいた部屋(flat)に関係があったようです。作詞当時の語感として、「ノルウェーの木材」が安普請をほのめかしていたとのこと。つまり、「ノルウェーの森」は本当は、「ノルウェー製の木材」(で出来た部屋)だったのです。
すると気になるのが、歌詞の最後で、主人公が火を付けたものですが。一体、何だったのでしょうか。(おわり)
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鳥山明原作のアニメ映画『Sand Land』を鑑賞してきました。すでに、他処のレヴューで多くの方が書かれていますが、大人も充分楽しめる作品でした。世界観の設定や「悪」についての考察など、楽しんでいるうちに、深い内容をさりげなく表現するたくみさに、思わずうならされました。この夏、お薦めの一作です。
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もう、20年以上前のことになりますが、レンタカーで南仏プロバンスを旅行したことがあります。当時は、まだナビが普及しておらず、ミシュランの地図を広げて標識と地図を交互に見ながら、行きつ戻りつの珍道中でした。地中海に面したブーシュ=デュ=ローヌという地区で休憩し、海に面した小高い丘で食事をしました。広々とした青空を眺めながら、のんびりとした気持ちにひたることができました。
ビストロの近くに小さなアンティーク・ショップがありました。そこの、飾り用の書籍の中にブリア=サヴァランの『美味礼賛』がありました。それほど版の古いものではありませんでしたが、紙質がよく挿絵もあったので、ダメ元で尋ねると、わりとすんなり売ってくれました。といっても買ったところで、通読する根気がないことは明かでしたが、よい想い出になると思ったのです。
いまでも、手放さず持っている一冊です。いつか綺麗に製本することを楽しみにしているのです。
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話題の本は時間が経ってから読むのを常にしているのですが、旬を逃すのも勿たいないと手に取りました。内容は、他処で多くの書評に書かれています通り、第二次大戦末期に対独戦で活躍したソ連の女性狙撃手部隊の話です。史実をもとに掘り下げたストーリーとのこと、思った以上に充実した読み応えのある本でした。
色々と考えさせられる処がありましたが、一つ印象に残ったのは、スナイパーは試行錯誤から学ぶ余裕がない、という話でした。迷っている間に、相手の狙撃手にやられてしまうのです。そこで座学が優位となります。生き残るためには、座学での基礎に徹底することから始める必要があるのです。
社会人になったばかりの頃、大学で学んだことなど役に立たず、現場の試行錯誤から経験値を積み上げるしかないという体験をした覚えがあるのですが、それは別に「座学」だから役に立たない、というわけではないのだなと目から鱗が落ちた次第です。
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台湾華語の勉強をしていた頃、副読本に漫画を利用しようと思ったことがあります。どうせなら、自分の好きな漫画がよいと思い、旅行をした際に探してみることにしました。ご存じの方が多いと思いますが、台湾で、日本漫画は人気があり、大手の書店にゆけば、新刊が時間をおかず翻訳され店頭にならべられます。その頃集めていた『夏目友人帳』が直ぐに見つかりました。ところがそこからが大変でした、昔から愛読していた諸星大二郎の翻訳作品がなかなか見当たらないのです。地下鉄を乗り継いで、大手の書店を2、3回ったのですが、とうとう初回の旅では、あきらめることになったのです。(つづく)
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前回(8/21付けコラム)からの続きです。台湾には、日本の漫画が何でも翻訳されて出揃っていると思い込み、苦杯をなめた私は、いったん戻って出直すことにしました。帰国後、調べて分かったのは、当時において出版されていた中文版の諸星大二郎作品は、『栞と紙魚子』の一冊のみだったのです(その後『私家版鳥類図譜』が出ています)。それも、出版年代は少し前のもので、当然、現地の大手書店に在庫はありません。古書店を回って、見つかれば運が良い、という位置づけのものでした。
台北、台南の古書店を充分調べた上で、再度、挑戦することにしました。調べているうちに、台湾に「茉莉二手書店」という大型の古書店網があることを知りました。店舗数は少ないものの、大型店の蔵書数は相当のものと情報をえました。そして、意気込んで行ったのですが、残念ながら二回目も空振りにおわりました。ただし、歩き回ったお陰で、事前情報になかった巨大倉庫のような、80年代の日本漫画の古書店を見つけるなど別の収穫がありました。(つづく)
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前回(8/22付けコラム)からの続きです。三度目の挑戦でも諸星作品の翻訳は見つからず、もう、あきらめることにしました。そもそもの発端は、「諸怪志異」や「西遊妖猿伝」のシリーズが繁体字版で読むことができたら、より実感が湧くだろうと想像していた点にありました。
しかし、こうして探し回っていたお陰で、地元のブックカフェや古書店の方々と交流ができるなど思わぬ収穫がありました。当時は旧ガロ系の漫画が翻訳ものとして人気があり、逆柱いみり作品を大事そうに抱えて見せてくれたブックカフェのスタッフの方がいたりましました。もう七年程前のことになります。
その後、何度か台北、台南にリーピート旅行しました。そして確か、台北のインディペンデント系の漫画専門古書店だったと思いますが、偶然、刊行されている諸星作品を二冊とも同時に見つけ、やっと手に入れることができたのです。地元の人と話をしたり、ネットサーフしたりして何となく分かって来たのは、「本気で怖い」(妖怪ハンター・シリーズを指すと思われる)というのが翻訳されていなかった背景にあるようです。この件は、興味深いのでまたコラムで採り上げたいと思います。(おわり)
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諸星大二郎の作品で、一番印象に残っているものは、『天孫降臨 -妖怪ハンター-』に収録されている『闇の客人(まろうど)』です。村起こしのイべントとして、「鬼祭り」という、いい伝えを再現したところ、「闇の客人」を呼び起こしてしまうというストーリーなのですが、本来は、陰陽道なり風水なり古来の道理に従って組み立てられていたものを、近代的なショーに仕立て上げるため改変をした為、惨事が引き起こされます。
私は、ここに、例えば、8月1日付けコラムでご紹介した、伝統的な水土の技術を忘却し、力技で水脈を押さえこんだがため、土石流の問題を副産物として産んでしまった近代科学技術の姿を重ね合わせてみたりします。
同作のラスト・シーンは、「ヒーロー」と呼んでしまうと作品の方向性と違いますし、老子の「無用の用」というと語弊がありますが、「フラジャイル」(松岡正剛著『フラジャイル』)ゆえに力を持つという、静かな感動を余韻として残します。
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最近は、もう見なくなりましたが、以前は、夢の中で古書店が良く出てくることがありました。それも、見知った街中に現実には所在しない店、もしくは、夢の中で何度か訪問したことのある場所にあるのです。前者については、確かに、学生時代に下校の道すがらに立ち寄っていた店が閉店し、通りの様子が変わってしまったという記憶が、いくつかありますので、そうした光景が夢に現れているケースもあるかもしれません。古い古書店マップで確認してみたいと思っている「夢の中の店」が1、2件あります。
ときおりそうした店で、本を手に取って開いてみることもあったのですが、目覚めてみると何を読んでいたかは記憶に残っていません。もしまた夢の古書店に行く機会があったら、いつかは読んだ本の内容を覚えて目覚めることを楽しみにしています。
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クリストファー・ノーランは、記憶や時間をテーマとした作品で斬新な映像表現を行う、映画監督・脚本家として知られています。私は『インセプション』という作品が面白く、何度も見ました。睡眠中の夢の世界を構築、共有する技術と、それを用いて暗躍する夢盗賊の話です。作中の様々な設定が魅力的だったのですが、なかでも「トーテム」と呼ばれる、小物が面白いと思いました。夢の世界に深く潜り込む夢盗賊には、いざというときに現実と夢を区別するためのアイテムが必要なのです。主役のコブは、真鍮の独楽、右腕アーサーは、プラスチックのダイスと、それぞれ自分にしか分からない微妙な感覚を現実世界への担保とします。コブは作中で、独楽が止まらなければそれは夢といった用い方をしていました。
映画を見た後、自分なら何を「トーテム」に選ぶか考えたことがあるのですが、意外と難しいものがありました。例えば、小物で、普段、一番身に着けているものといえば家の鍵ですが、引っ越しのたびに取り替えているので、「現実への担保」としてはちょっと弱い感じがします。映画のシーンでも説明がありましたが、まずは「トーテム」を決めた上で、その感覚を養う処から入る必要があるようです。
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レイ・ハリーハウゼンは、いわずと知れた特撮の巨匠です。可動骨格を持つパペットをストップ・モーションでフィルムに収めつなげてゆくコマ撮りの手法で数々の名作を残してゆきました。子供の頃、テレビの洋画劇場で、ハリーハウゼンの特撮作品を、いくつか見た記憶があります。モンスターの躍動感が非常に印象的で、感激したのを覚えています。
最近、1963年の作品『アルゴ探検隊の大冒険』が劇場公開されていましたので、初めてスクリーンで見てきました。デジタル技術を駆使した現代のSFXと比較すれば、精度という点で見劣りするはずなのですが、パペットの動きに生命が宿っているようで、むしろCGよりも「リアルさ」を感じたことが面白かったです。ぜひ、『シンバッド七回目の航海』も映画館で見たいものです。
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日常、私たちが、「花」といって思い浮べるものは、朝顔、向日葵、薔薇、菊、桜と、大概、鑑賞用のものかと思われます。森 昭彦著『身近な雑草たちの奇跡』で、トップバッターを飾るのは、オオイヌノフグリという路傍に咲く雑草です。「フグリ」の由来はさておき、学名は聖女に由来するこの野花をフランスでは、「聖母マリアの瞳」と呼び、著者曰く「野辺でこの瞳に出くわすと、人生がガラリと変わることがある」そうです。ご当人も体験した由。植物に親しみたいと模索している私は、本書にある写真の「瞳」に出くわしました。
これは、雑草の生える道端を一つの小宇宙に変える、まるで魔法のような本です。
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数年前、ニューヨークに旅行をした際、現地の古書店とコミック本屋を見てまわったことがあります。古書店については、事前に聞いていた通り、店舗数は少なく、日本や欧州にあるようないわゆる古書店街に該当する区域はありませんでした。映画『ブックセラーズ』にある通りです。コミックに関しても、本来の意味でのサブ・カルチャーに分類される日陰者扱いで、一点集中の専門店があるばかりでした。しかし、こちらは、店舗に入って実際に商品を見て回ると、必ずしもDCコミックス系のヒーローやアクション物ばかりではなく、純文系とでも呼んだらよいのでしょうか、日常を描いたものや、体験を元にした物語など、思ったより幅が広く楽しむことができました。
記念に購入したのが、John Porcellino著の"Diary of a Mosquito Abatement Man"です。マラリアを媒介する恐ろしい害虫、蚊を専門にした駆除要員の主人公が、自然の大切さに目覚めてゆくお話です。白抜きの素朴な作画でコマ割りも至極単純な作品ですが、メッセージ性が高く、アメリカ一般人の生活が垣間見られることも面白く、購入後何度か読みかえしました。と、コラムを書きながら、書肆ミスカで翻訳を出してみても面白いかな、などと思いついたりしました。
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ジョージ・アダムスキーは、アメリカのUFOコンタクティ(UFOや宇宙人と直接遭遇した人)の草分けとして知られています。毀誉褒貶の激しい人で、特にアポロ計画の後に世間の風当りが厳しくなった人物です。アダムスキーに対する批判の一つに、彼が「実体験」を語り始める以前に、フィクションとしておよそ同類の内容を書いていた。というものがあります。懐疑派の人たちは、これをもって、鬼の首でも取ったかのように批判をしています。しかし、この批判は論理的なものではありません。「Aという体験をした人が、事前にA'という物語を書いていた。だからAは偽である」と言い換えてみると、ヘンテコな論理構成であることが分かります。
その人は、事前に事態を直感していたのかもしれません。程度の差こそあれ、虫の知らせなど私たちは日常的に体験しています。また、もしかしたら、その人は、A'の時点で、Aの体験をしていたのかもしれません。アダムスキーの書いたフィクションの翻訳者である益子祐司が、この説をとっているようです。不思議な一致という可能性もあるでしょう。もの書きは、時として未来予測のようなフィクションを書くことがあります。モーガン・ロバートソンという作家があたかも、タイタニック号の沈没を予見したかのような短編小説を書いたという逸話が有名です。
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オーストリアのナチュラリスト、水の魔術師として知られるシャウベルガーに興味を持ち、本書を手にしました。シャウベルガーは、森の知恵を、現実的な技術として活かした稀有な存在です。「水」に生命を見る視点は、『土中環境 忘れられた共生のまなざし、蘇る古の技』(8/1付けコラム)との共通点を感じました。シャウベルガーの残した「知的遺産」には、自然と共存するための科学を模索してゆく際のヒントが潜在していると思います。本筋と離れたトリビアですが、伝聞と写真のみ残されている「発電機」に関して訳者が「静電発電機」との関連性を指摘している点を面白いと思いました。
本書は、『奇跡の水』として出版された本の新装改訂版です。
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